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問. ちょっと変わった質問をします。なぜ神が、私のために死ななくてはならなかったのですか?
答. その答は、すべての人類は、自らの罪のために死-永遠の滅びという第2の死-という報いを受ける、という聖書の教えです。
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
創世記 2:16,17
罪から来る報酬は死です。…
ローマ人への手紙 6:23
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
2 テサロニケ人への手紙 1:8,9
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
ヨハネの黙示録 20:14
そして、人間の罪を神ご自身が引き受けて身代わりに死ぬことで、人類から(すべてではなく)何人かを選んで救うという計画で選ばれなかった人はすべて、その罪のために死んで行くことになります。だから神が身代わりになるのです。驚くことに、聖書の福音では、神は(世界の基礎が築かれる前から)永遠の滅びに値する、特定の反逆者の罪をそれぞれ引き受けて、報いを受けたと唱っています。
…彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
イザヤ書 53:8
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
ヨハネの黙示録 13:8
(キリスト・イエスの位格の中の)神は、救いのために選んだ特定の人に代わって、その人の犯したひどい不名誉と懲罰を受けられました。キリストが身代わりになった結果、こうして選ばれた人々は、永遠に滅ぼされることがありません。キリストが償った死で、神の法が求めるものは完全に満たされたということです。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
イザヤ書 53:11
罪の負債を完済した時点で、それ以降、神の人々がそれらの罪のために神の律法による報いを強いられることはなくなります。彼らは、法の刑罰から解放されたのですから。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ローマ人への手紙 8:1
問. 神が人のために「死んでくれる」というのは、素晴らしい考え方だと思います。でも実を言うと、神の存在すら、まだ把握していないんです。どうすれば確認できますか?
答. 神など存在しないと主張する人もいれば、よく分からないという人もいます。しかし、神の存在は多数決で決めるものではありません。聖書には、神が実在した方だということを、厳然たる事実として記載されています。
初めに、神が天と地を創造した。
創世記 1:1
世の中は、万物を創って支える創造者がいた(今もいる)のだという証拠を、絶えず現象化してくれます。すべての背景には主なる設計者がおられたということを、自然が私たち一人ひとりに、高らかに宣言しているのです。
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
詩篇 19:1-3
人は皆、心の奥深くでは、神の存在を肯定しています。また、その神と上手く行っていないとも感じています。
なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
ローマ人への手紙 1:19,20
問. 確かに美しい花や不思議な生き物を見ると、神がすべてお創りになったに違いないと思います。しかし時折、「どの神なんだろう?」という疑問が湧き上がります。多くの宗教が先を争って、自分たちの神こそ本物だと主張していますよね。どの神が正しいのですか?
答. なかなかいい質問ですね。世界中に宗教と、それら特有の神が溢れ、神の性質に関する見解も対立しています。しかし聖書は、私たちが知ることができるのは、唯一無二の真の神だけであると、確信を持って教えています。
わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。
イザヤ書 45:5,6
諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、救えもしない神に祈る者らは、何も知らない。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
イザヤ書 45:20-22
聖書は、キリスト・イエスこそが、救いを与えられる唯一の 救世主であると宣言しています。
…ナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。… この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
使徒言行録 4:10,12
問. イエスが神だとおっしゃるのですか?
答. その通り!聖書は、イエスが、生身の肉体を持った聖書の神であると明言しています。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。…
ヨハネ福音書 1:1,14
問. でも、イエスは「神の御子」と呼ばれていませんでしたか?子どもだとしたら、父親がいるはずです。神は、何人いるんですか?
答. ええ、確かにイエスは「神の御子」と言われます。しかし聖書は、イエスが永遠の神であると、はっきり断言しています。また、父なる神も永遠の神であると言っています。真実は何かというと、神の位格に関する議論は複雑すぎて、知識の乏しい一介の人間にすぎない私たちには理解できないということです。
御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく・・・
ヘブル人への手紙 1:8
神は3つの位格として姿を現されましたが、なお、自分は唯一の神であると断言されています。
あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
1 ヨハネの手紙 5:7
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
申命記 6:4
問. お話を聞いていると聖書から引用されているようですが、こう聞いたことがあります。聖書というのは単なる大昔の本で、人間が書いたものだと。
答. 聖書が古代の本だというのは本当です。ただし、断じて人間が書いたものではありません。神は預言者を動かして、ご自身の口から直接出た言葉を記録させました。この方法を用いて、人類とのコミュニケーションを記録する書記として、預言者に語らせたのです。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
2 ペテロの手紙 1:20,21
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
2 テモテへの手紙 3:16
ですから、聖書全体が神のことばで出来ています。神のことばは、すべて純粋かつ神聖であり、全幅の信頼を置けるものです。聖書は、それが記したものすべてにおける究極かつ最終的な権限を持つものなのです。
問. 正直言って腑に落ちません。私はそれほど悪い人間でもないし、なぜ神が私のために死ぬ必要があるのですか?
答. 過酷な現実ですが、人は皆、罪を犯して神の律法を破るからです。神の法を解釈する聖書によれば、すべての人間はどうしようもない悪人で、よこしまなものです。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。 善を行なう人はいない。ひとりもいない。
ローマ人への手紙 3:12
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
エレミヤ書 17:9
神は完全で公正、かつ聖なるものです。そして、すべての人間に戒律への絶対服従を求めています。ですから、たった1つの戒律に背いたとしても、神の激しい怒りに触れてしまうのです。
律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
ヤコブの手紙 2:10
自分に正直になるならば、私たちは、すべての他人と同様、罪があることを認めざるを得ません。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1 ヨハネの手紙 1:8
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ローマ人への手紙 3:23
…罪を犯した者は、その者が死ぬ。
エゼキエル書 18:4
さっき言ったように、聖書から出た原則では、罪に対する罰は死です。そして、神の計画にある死は、炎の池に投げ込まれて永遠に断絶される第2の死です。
問. 本当に神が、人々を炎の池に投げ込むと思いますか?
答. 思います。神にとって罪は、極めて不快なものです。罪が醜悪すぎるため、限りなく神聖な神は、法に背く罪人を永遠に滅ぼす必要があるのです。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
ヨハネの黙示録 20:15
見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。・・万軍の主は仰せられる。・・
マラキ書 4:1
問. 地獄行きの宣告を受けた人は滅ぼされ、その存在を永遠に消されるということですか?
答. 恐ろしいことですが、そうなります。聖書には、神の審判の過程には、現世と人類の壊滅が含まれていると書かれています。人間は、全能の神の怒りによって全滅するのです。
しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。
詩篇 37:20
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
2 ペテロの手紙 3:10
問. あなたが語る神には、ちょっと違和感を憶えます。キリスト教徒が信仰する神は、親切で温和な、万人を愛する方だとばかり思っていましたから。神は、あなたがおっしゃるような、怖い方なのですか?
答. 神は、情愛に満ちた寛大なお方です。しかし同時に、神聖かつ公正な面から、ご自身が造られた人間を、法に背いた罪の責任を負う者と見なしてもおられます。聖書を熱心に信仰している人は、神が本当に恐れられるべき方なのだという警告を発したいと思っています。
こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。…
2 コリント人への手紙 5:11
主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。
ナホム書 1:2
私たちの神は焼き尽くす火です。
ヘブル人への手紙 12:29
あなたがたは、わたしを恐れないのか。・・主の御告げ。それとも、わたしの前でおののかないのか...
エレミヤ書 5:22
今日多くの教会が、いつも笑顔で近寄りやすく、すべての人々と仲良くするイエスというイメージを掲げています。しかし、それは全く違います。イエスは人類の罪に怒っています。そして、邪悪な者を戒め、永遠の滅びという最終判決を実行に移す方なのです。
…日々、怒る神。
詩篇 7:11
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
マタイ福音書 10:28
問.その響きからして、地獄の刑罰は絶対避けたいものです。永遠に滅ぼされないためには、どうしたらいいんですか?
答. 憶えておいてください。人類が置かれている状況は良くありません。私たちは、罪深いがために、悔い改めて信仰に入るという福音書の要求に十分応えることはできません。私たちは霊的に死んでいる存在なので、救いをもたらすことのできる行いを実践することができないのです。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
エペソ人への手紙 2:1
…なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
ガラテヤ書 2:16
現に聖書は、人間が自身の行いによって救いを得ることは、全く不可能であるとしています。神だけが、罪人を救えるのです。
弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
マタイ福音書 19:25,26
問. 行いに関係なく滅ぼされると言うのですか?望みは全くないんですか?
答. もちろん望みはあります。それは、神を信じることです。信じることで、神はあなたを救うために、あらゆる事をしてくださるはずです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ福音書 3:16
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ヨハネ福音書 1:12,13
問. 神がどのように人々を救うのか、あまりよく理解できません。神は、誰に哀れみをかけるのですか?どうすれば、哀れみを受けられますか?
答. 神は救う人を選択して、その計画を進展させます。もっぱらご自身の至上の喜びに基づいて、あちらこちらで一人ひとりお選びになります。人を救うことは人間の慈善行為ではなく、主イエスが行う、完成された仕事なのです。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
エペソ人への手紙 1:4,5
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。…
ヨハネ福音書 15:16
(その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、) わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
ローマ人への手紙 9:11,13
問. 救う人として選ばれたとしたら、どうやってそれが分かりますか?
答. 選ばれるか選ばれないか、その予定について知っているのは神だけです。したがって、私たちは「選ばれる」という問題を、完全に神の主権に委ねなければなりません。ただし、祈りを捧げることはできます。神は、私たちが(自らの罪と、神の怒りという条件下に置かれていることを認識して)許しを請うことができるように、神に働きかけることを、心からお許しくださいます。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわんでください。』
ルカ福音書 18:13
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙 4:16
罪人は、神の位格から希望を与えられます。哀れみの神からです。神は私たちに、哀れみを懇願する特権を与えてくださいます。そして私たちは、光り輝く神に、死刑を宣告された謀反人のように、(キリスト様のためだけに犯した)罪の許しを請うことができるのです。
…怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。
ミカ書 7:18
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
マルコ福音書 10:47,48
イエスは、盲目の物乞いが哀れみを請願するのを聞いて、物質的な視覚を与えられました。このことから、キリストが罪人に対して優しく、情け深いことが見て取れます。
問. では、哀れみを懇願すれば、破滅から救われるのですか?
答. 注意しなくてはなりません。救いを得るための方程式はないのです。すべては神の手に握られています。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
ローマ人への手紙 9:15
問. 私も神の元に出向いて、哀れみを求めることにします。答えをいただくまでに、どれくらいの時間がかかるでしょうか?
答. 私たちは、神にいかなる時間制限も課すことはできません。神は、ご自身のタイミングと方法で(そうすることが至上の喜びであるならば)、特定の人を救われるのです。
私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
詩篇 130:5
主の救いを黙って待つのは良い。
哀歌 3:26
ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。
詩篇 123:2
私たちは、救いが実行されるまで待たなければなりません。しかし、主がお救いくださるのを待つ間、救いとは緊急を要する事柄なのだということを意識してください。私たちが、誰一人として死を迎える日を知らないのは、このためです。人間の日々は、ほんのわずかです。また、多くの熱心な信者が、聖書から、主イエスの復活と現世の破滅の間隔が非常に短くなっていることを学んでいます。
問. 世界が、じきに終わると思っているんですか?
答. もちろんです!私たちは、2011年5月21日に主の復活に、同じ年の10月21日には世界そのものの終焉に遭遇すると思います。*
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
1 テサロニケ人への手紙 4:16-18
それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、 …もはや時が延ばされることはない。
ヨハネの黙示録 10:5,6
問. 時間がわずかしかない、というのは本当ですか?
答. 人間にとって、この世に生きる時間があまり残されていないというのは事実です。でも安心してください。神が罪人を救うのにそれほど時間は要りません。このことは、イエスが私たちの目の前で十字架に張り付けられながらも盗人を救われたことで、最もよく知られています。
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
ルカ福音書 23:42,43
問. 神の救いを待つ間に、キリスト教の教会を探して礼拝に出てみるべきでしょうか?
答. とんでもない!神は教会や信徒団とは縁を切られました。なぜなら、教会の時代は終わりを告げたからです。私たちは、神の判決がすべての宗派(カトリック教徒、プロテスタントを問わず)に対してなされるという、大きな試練の時代に生きています。そして、世界中に散在するすべての教会が、神のことばに従わないために、裁きの下に置かれています。
なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。…
1 ペテロの手紙 4:17
つまり神は、あらゆる国のキリスト教徒に、教会から卒業するよう命じています。
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
マタイ福音書 24:15,16
今日、神は教会の中では人をお救いになりません。ですから、教会は、キリスト教徒が今日最も避けたい場所なのです。その代わり、教会以外にいる人の多くが、神の救いを得ています。
その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、… …彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
ヨハネの黙示録 7:9.14
問. 教会に行かずに、どうやって救いを見つければいいのでしょう?
答. 神の救いは、聖書を通して実行されます。したがって、聖書をできるだけ読むことが大切です。聖書に書かれてあることに、できるだけ従順であるよう努力することです。神は、天の声を聴いて人を救われるのです。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
ヨハネ福音書 6:63
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
ローマ人への手紙 10:17
どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。
詩篇 119:97
聖書を読むと、神が実際に私たちの罪のために死んでくださったことが分かります。このパンフレットに記載した聖句を読むことで、神の救いとともに豊かな祝福がもたらされますように。
* 2011年5月に神に選ばれた人の歓び、および2011年10月の現世の終焉について、もっと詳しくお知りになりたい場合は、後述する方法でご連絡ください。
インターネットのライブフェローシップに参加してみませんか?詳しくはサイトをご訪問ください。
弊社サイトの「インターネット放送」か、またはフリー Paltalkの指示に従って、ライブをお聴きください。
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